日月之和

神道 周易 森羅万象

スポンサーサイト  

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

category: スポンサー広告

tb: --   cm: --

般若心経-カシリ  



先日、ニコ動の竹田恒泰チャンネルで「のろいのかけ方」のお話しをされていました。
もちろんのろいの防ぎ方というのも話されていたのですが、そのときに般若心経のお話しがでてきました。
般若心経は最も広くよまれているお経です。
文字が読めない人のために江戸時代には絵心経というものが考案されました。なじみの身近なもので音を表現し,経を唱えることが出来ました。この本にも全文載っています。読んだ当時はなかなか面白いと思ったものです。

さて、竹田先生は、この般若心経が「のろい」をはらうのによく、特によいのは最後の真言の部分とおっしゃっていましたがこれについては私も経験上、心からうなずくところです。


般若心経

この最後の
「ギャーテイ・ギャーテイ・パ-ラ-ギャーテイ・パラソーギャーテイ・ボーディーソワカ」の部分です。

普度つまり「彼岸へ行こう」と勢いよくいっている個所です。
ここは、訳してはいけない。
真言(マントラ)ですから、サンスクリットの音のままで唱えなければいけない個所です。

この言葉のひびきが彼岸に近づく音なのでしょう。
日本の「のりと」も音が大事なのと一緒なのだと思います。
かつて神に祈りを捧げていた人は、これらの言葉を唱えていたときに一番、神に近づくことが出来たと感じたがゆえに長く唱えられてきたのでしょう。
他の音に変えてはいけない。そのまま言葉を発することが重要なのです。
この音の波にのってこそたどり着ける場所がある。




私は昔、とても変な体験をしました。
引っ越しを機にみえないものの干渉に遭ったのです。
8ヶ月ほどその干渉が続いたのですが、その間、沢山のあり得ない偶然の嵐によってそのときまで認識していた世界とはまるで違う世界に住むことになったのです。

この体験は日本心霊科学協会の会報誌に2ヶ月続けて連載しました。

そのときに、起こっている出来事がどういうことなのか知りたくて心理学、宗教、精神医学の本を片っ端から読みました。
そのうち干渉してきているものに踏みきりで足をつかまれ動けなくされたり、駅のプラットフォームで線路に向かって押されたりしたので、これはまずいことになったと思い、つてを頼り某医科大学の教授がお話を聞いて下さるということで相談をしました。それによると私自身にはおかしいところは感じられないとのこと。職業柄そういうことはよく聞きますとおっしゃってました。

引っ越した方がよいとのアドバイスを別の方からいただき、すぐに引っ越しました。

一世風靡していた宜保愛子さんのテレビでの「神仏に祈るのに抵抗があれば、飼っていたペットにお願いしてもよい」というアドバイスに従い飼っていた文鳥たちにお線香を立て一緒にいてくれたことへの感謝をし守ってほしいと祈りました。

祖母から電話があり「1週間続けて私の夢を見続けている。何が起こっているのはわかっているから押し入れに入っている観音様の掛け軸を出してかけなさい。自分も祈るから」と連絡がありました。祖母には心配するといけないので何も話していませんでした。

その後、怒濤のような観音縁起をへて、この般若心経にたどり着きました。
1日1回は唱えること、出来る限り写経をする。これをしていてしばらくたった頃、それは起きました。
ある日、仕事から家に帰ってきてドアをあけたら,天井、壁、床にすべて般若心経が墨書されていました。(達筆)
すべての部屋を見て回ったのですが窓のサッシにまで書かれていました。
これは、他の人には見えませんでした。ますますおかしくなってきたのかと思いましたがそれは違ったようです。

後に真言宗の方にこのことを話したところ、「結界を張ってしまったのですね。そういうことが出来てしまうたちなのでしょう。」と言われました。
このように般若心経の力を実感しましたが、私も真言部分を読み上げるときには流れ込むエネルギーを感じていました。

結局のところいろいろ対処してきたことの何がよかったのかはわかりませんが、最終的には空一面真っ黒になるほどの沢山の鳥が私めがけて飛んできて目の前で大きな黄金の鳥になり胸に飛び込んだことを境にきれいさっぱりと干渉はなくなりました。

この体験で、日常とは違う理の世界があるのだと認識しました。
さらにいえば、医学とか仏教や心理学の精神に関する理屈のすべてはとか霊に還元されるものだと自分なりには結論づけました。

それが一番単純ですっきりする解釈です。



竹田先生は呪いはあると述べてました。

私もこれはそのとおりだと思っています。
祈りが信じられるのであれば呪いもあるとしなければならない。
もともと一緒なのですから。良いことも悪いことも願うことが呪り(カシリ)

最も短い呪は名前。人は名付けるときに念を込めます。それは名付けられた人を守る。
だから人はやすやすと本名を他者の目にさらさなかった。
昔の人はあざなを使用していました。本当の名を知られるとかけられた呪が損なわれるかも知れない。
知られれば呪いをかけられる。

祈りも呪いもどちらも人の思いが凝縮されたもの、それをどこかへ届ける作業です。

ただし、祈りは届くものであり、呪いは帰ってくるものです。
それはくれぐれも肝に銘じていて下さい。

真言密教の方の言によると最初に学ぶのが呪いのかけ方だそうです。
なぜならば、自分を守るために呪いを知っておかなくてはならないからだそうです。
悪を知ることにより善をおこなう。

戦時中に高野山では山を挙げてルーズベルトを呪詛していました。
今も日夜呪詛に励んでいる人、国はあるのです。

祈りましょう。よいことがあるように祈りましょう。よいことを祈ることでまた「のろい」も祓うのです。

ギャーテイ・ギャーテイ・パ-ラ-ギャーテイ・パラソーギャーテイ・ボーディソワカ
スポンサーサイト

日記の関連記事

category: 日記

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - janre: 心と身体

tag: 竹田恒泰  のろい  般若心経  祈り   
tb: 0   cm: 0

命の系譜  

祖

先週から目を閉じると四、五人が踊っています。光を放っているので輪郭ぐらいしか見えないのですがその光の軌跡が美しい。
寝ようとして目のまえで不思議な踊りを繰り広げられると眠れません。
目を開けて寝直そうとしても続きが出てきます。

やれやれと思い、あきらめてそのまま見続けることにしました。
美しい光や映像が続き、見ている内に寝てしまったのですが起きてから気づきました。
そういえば、夏恒例の盆踊りかなと。それにしては神楽っぽいのですが。

数年前に寝ようと目を閉じると、いきなり平安時代の家の濡れ縁(簀の子)のようなところに立っていました。
角を右に回ったところに束帯を着けた男性がいる。
じっと下方を見つめている。
ここは丘の上のようになっていて、丘の下の方には、とてつもなく巨大な鳥居がある。
そこから数え切れないほどの沢山の人が出てくるのです。
様々な時代、階級、職種、大人に子供がわらわらと鳥居から出てきてこちらの方に向かってくる。
中には楽しそうに踊りながらやってくる人もいる。よくみれば動物もまざっているような。
私は群衆に驚いてしまいました。
あれらの人はどうやらご先祖様らしいときづきました。動物は彼らにかわれていたのかな?

ところで隣で涼しい顔をして彼らを見つめているのは誰なんでしょうか。
微動だにせず、それでいて緊張した風もなく、いたっていつものことというような構えでした。
静謐とはこういうことを言うのかなと思わせるようなたたずまいでした。
話しかける勇気もなかったので眺めているだけでしたが未だの人物です。

残念ながら寝てしまったらしくその後の事はどうなったのか分かりません。

はじめの踊りですが、大体いつも始まりの合図のようなものなので、もう少し我慢して起きていれば鳥居から出てくる人が見られたのかな。また、あの束帯の男性とお目にかかれたのかもしれないと思うとちょっと残念でした。

先日、周易の勉強会で人類のたどった歴史を聞きました。
生物が発生してから今の人類に至るまで全ての生物に同じDNAがあること。
つまり、今ここにいる私という人間は、元をたどれば凄い数の先祖がいるわけです。
私という個人までたたれることのなかったつながりがある。
人は孤独にはなれないのだなと思いました。
一人で生きていると思ってもこれだけの命に私達は支えられて生きているのだと思うと自分を粗末にすることが出来なくなります。

生命のつながりということを思うと空の星を眺めるのと同じ畏敬の念を感じ得ません。
人類は皆兄弟どころではないのですね。

そんなことを思いつつ、先祖に感謝の気持ちを伝えたい。
親を含めて直近のご先祖と少々気が合わなくても、愛情を注いでくれなくても、この中にはきっと心がわかり合え、とことん愛情をもってくれている人がいるはず。
まあ、そういう人が守護霊となっているのだと思いますけど。


にしても、あの人は誰なんだろう。



いのちはときのなかを ながれながれて  
    とこしえのきろくを  ふたえのらせんにつむぎゆく
わたしはこのうたを うたいかたりて 
    せつなのきおくを ひとのこころにきざみゆく








夢・白昼夢・夢解きの関連記事

category: 夢・白昼夢・夢解き

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - janre: 心と身体

tag:   周易    先祖 
tb: 0   cm: 0

影-景-陰-蔭-翳  

景 かげ 

易の年表を作っているのですが、できるだけ人の心の軌跡も取り上げていきたいと思っていました。
なぜならば人が築き上げてきた全てのものは人の思い、心が作ってきたものだからです。
人は何を思い、何を感じ、何を残そうとしたのか。

その心の軌跡は残されているものからしかたどることが出来ないわけです。
調べている内に、遠い祖先の、心に響く副葬品のことをしりました。
それは、北海道、東北の縄文時代の遺跡から発掘された足形付土版です。
足形も手形もあるのですが、その多くは子供のものです。

土版には穴があいていて糸を通して下げられるようになっているそうです。
今も子供が誕生すると手形と足形をとることがよくありますね。
昔の人も同じ気持ちだったのでしょうか。

亡くなった人を思い起こすよすがとしてその人の何かを残しておきたいと思うのは今も昔も変わらない思いです。
幼くしてなくなった子であればなおさらと思います。
手形や足形を写し取り、それを常に傍らに置けば、個人の在りし日の姿をより鮮明に思い起こすことが出来るのでしょう。

この世の形を写し取り、何かに投影する。それが影。
なくなった方の写真を遺影というでしょ。
本体を別のものに投影したものが影。

生きている人が光であるならば、んでどこかにその光を隠された人は影となる。
魂のことも影という。
影は見えないわけではない。
水面にうつる月は月の影。暗い中に浮かび上がる光も影。

影(陰)ではあってもその中には光がある。
人は亡くなった人の面影をその光の中に見るのでしょうね。

影は明るい中にあっては暗く、暗い中にあっては明るいのです。

そしてそれはこの世の様をくっきりと私達に見せてくれるし、もしかしたらあの世の様も見せてくれているのかもしれない。

影と光があってこの世界が成り立っているのですね。







易経の関連記事

category: 易経

thread: 心、意識、魂、生命、人間の可能性 - janre: 心と身体

tag: 古代人  縄文      祈り  周易  易経 
tb: 0   cm: 0

上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。